とある大学生の勉強メモ

バカでもいいじゃない,子供でもいいじゃない.

組織論

 人間はポリス的動物であると古代の哲人は言った。人は集団で生きる動物であり、それは子孫繫栄や利潤という点のみならず、人々の幸福感にまで相関があるのだという事が近年明らかになってきた。幸福のクラスター化といって、小さな集団でみると幸福な人の周りには幸福な人が多く、共感は伝染していくという事が分かっている*1。幸せは身近に伝染していくのだ。そして集団であれば感じられる幸福感も高まりやすいという事も言われている。

 しかし集団は孤立を生む。孤立というのは一人でいることではなく、集団の中で外れる事である。集団がなければ孤立はない。加えて資本主義下の企業や旧態依然の体育会系組織では組織力学を以て強制的な統制が行われている事も少なくない。上からの圧力によって強制的な統制をしても心は一つにならない。論理的に間違いであるとしても組織をまとめる為に権力を行使する場面は出てしまう。そしてその強制が構成員の不満を生み出し、個人レベルの不幸が溜まってしまう事がある。

 以上のように組織とは分業によって大きな仕事ができたり幸福感の増加といった良い面の反対に無意識も含めた孤立や権力の乱暴が度々起こってしまう。これらの問題に対して組織とはどうあるべきかという組織論を組み立て、これらの諸問題に対して一定の解決策を述べてみようと思う。

 

1 Well-beingとは

 ミクロ哲学に於いて幸福は個人の中で閉じた概念である。個々人が全員自分の中で幸福感を感じる事が出来れば、各々は人生を満足して終わる事が出来る。この哲学の中では諸個人の価値とは如何にその個人が幸福感を得ているのかに由来する。対してマクロ哲学においては集団の幸福度が優先される。集団全体の幸福度上昇が結果として個人の幸福度に直結するという考え方である。集団の価値とは集団に属する個人の幸福度の総和となる。社会を構築する上でマクロ哲学的思考を持つ事は非常に都合がいい。筆者自身も哲学を語る時にどちらの考え方になるのかは場合によって分ける必要があると考えている。

 筆者が見てきた多くの人は自分の為に果たして生きているのかと思う事がある。常に周りや組織の為にといって自分を殺している事はないだろうか。そして高度経済成長期から続く日本人の自分より集団を優先する心理への美徳感は国民性とまで言っていいかもしれない。しかし忘れてはいけないのが社会など存在しないという事だ。みんなというのは概念に過ぎない。英語なら単数形。あなたは概念の為に生きているのか、と問いたい。きっとそうではないはずで、多くの人は自身や大切な人の為に生きていると思う。それがどういうわけか時折見せる「社会の為に」「みんなの事を」「チームの為に」という風に言われてしまう*2

 ここで一つ問いたい。それは本当にその組織に属する各人の幸せになっているのか、と。

 

2 組織の存在意義 

 基本的に組織の存在意義とは分業・集団による生産性の向上と共感による幸福感の獲得にある。一人ではできない事も多人数になればできるという事は多くある。そしてその組織のOB・OGの支援もまた大きな力になる。加えて身近に人がいる事によるモチベーション維持など教育的効果も挙げられる。そして何より他人と分かち合う勝利や成功は格別であるというのは言うまでもない。かくいう筆者もクラブに属してからそれらのメリットは大いに感じてきた。

 だが最近になって形作りを重視する統制やモチベーションケアの放棄などにより退部者も増えてきた。人数が増えると集団の中に集団が生まれる。必ず一つになり切れない人数上限が組織には存在するのだ。集団の中にまたいくつかの集団が生まれた時、問題となるのは自分達中心主義だ。彼らはいつも自分達こそ皆の為にやっており、少数の集団は皆の為に動いてほしいという考え方だ。僕は幼少期にこの内輪の外にいた。そこでは自分達というマジョリティの安心感と正義感の下、孤立した人が悪いという価値観があった。

 正義詰まる所自分達が正しいと感情的に判断する事は大きな間違いである。なぜなら正誤という概念は常に論理の中で閉じており、感情的に正誤を語ってもただの感情であり常にその正誤は不安定である。不安定なものを正しいかどうかの土俵にあげても議論が平行線になるだけである。自分達が正義という考えが感情によって生み出された時、人は争いを生んでしまう。その結果が世界大戦を始めとした戦争の悲劇を生んでしまった。筆者は戦争によって哀しみと憎しみに世界が埋もれる事を否定する立場である。故に論理外の中で正しい・正しくないという概念を持つ事は反対であるし、そもそも変動しがちな真理値を持つ判断は論理学上否定されるものだと考えている。

  なぜ少数側が悪いのか。そこに論理性は存在しない。集団を一つにする為に強制的な統制を行ってしまえばむしろ心はバラバラになってしまい、個人の幸福感も低下してしまう。例えば自分達は最後の大会が終わっているにも関わらず、もう一つの同期のチームは次の大会に進出したので、自分達もまだ現役続行だと言われたとする。引退の定義は確かに都合よく定義され得るが、

スポーツの世界において引退というのは選手としての身分を離れる事である。

 選手とはつまり試合に出る人である。もう試合に出る可能性がゼロになった者を引退したといい、それゆえの引退試合であり、これが論理的な解答である。理論的には最後の大会終了と同時に心は現役引退であるにも関わらず、組織統一の名目の下、身体は現役続行となる。心と体の捻じれ状態の中、組織力学によって強制を行ってしまうと当然不幸感を覚えてしまう。とはいえ組織として統一感を出す事は不可欠である。この問題に対してどのように解決をすれば良いのか。ここが非常に重要であり、多くの人を悩ませる点である。個人の不幸をなるべく回避しながら論理的矛盾を孕む組織統一を如何にして行うのか。筆者は一つの解決策を本日持ってきた。

 

3 無意識な内の統一

 日本にいて税金の使われ方にキレたから日本を出ていく、という人は少ない。実際BTCで億り人になった人が海外逃亡したが、多くの人は怒っていない。なぜか、知らないからである。無知は幸せとはよく言ったもので、知らなければ人は怒る事などできない。舛添氏の問題も似たような事は他の人がいくらでも行っていたが、メディアに出ず周知されなければ問題にはならない。問題は問題にあがらない限り問題にはならない。

 科学的な刺激方法にサブリミナルなやり方がある。サブリミナルコマーシャルというのが有名でTVcmのコンマオーダーの秒数異なる映像を一瞬はさみ、視聴者はその画像を認知できないにも関わらず広告の効果が強まるという手法がある。選挙などで何度も名前を連呼していると聞いていないにも関わらず脳内に記憶されて選挙に影響がでるという事がある。「カルピー、ポテトチップス!」という文字を見れば否が応でもリズムが思い出される。そういった非意識下で人は実は多くの判断を行っている*3

 ここでいう解決とは無意識な統制を執る事によって構成員の幸福の担保を図りつつ、実際には組織をまとめるという事だ。意識できなければ不幸を感じる事はない。秘密保護法も後世でどのような評価を受けるか分からないが、個人的には良い印象を持っている。無知に幸せを受けられるのであればそれはミクロ哲学において良い事だからである。そして組織統一においても大切な事は無意識な統制をしていく事である。

 サブリミナルな情報提示はスプラリミナルな情報提示に対してストレス指数を低く保ったまま、効果をあげる事が確認されている*4。うわさや本人の意図によって情報を得た時と上から強制的に伝えられた情報とではストレス指数に大きな差があるだろうという事は経験的にも分かる。強制的な統制はされる側が強制と感じた瞬間不幸を生んでしまう。加えて上記の例のように論理的整合性が取れない事もしばしばある。この時大切なのはその点に関して統制する対象を無意識にさせる事である。そうすればファジーなまま時間が消化される。逆に論理的矛盾を含んだまま明らかな強制をしてしまうと不幸感と心身の捻じれを発生させてしまう。

 権力を持つ者は無意識なうちの統治という手法も覚えておくといいだろう。そして常に構成員に(自分が支払う対価)=<(自分が受ける報酬)という状態を維持する事である。報酬は常に利潤のみならず幸福感も含まれる。そして対価とは疲労や時間も含まれる。これが組織運営に役立つことを祈るばかりである。

*1:ヒト社会における大規模協力の礎としての共感性の役割 村田藍子

*2:なぜ世界は存在しないのか Markus Gabriel 2018

*3:サブリミナル・マインド 下條信輔

*4:意思決定における精神的作業負荷を軽減する情報提示手法 水上