とある大学生の勉強メモ

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旅と旅行の明確な違い (Difference of travel and journey)

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前置き 明瞭な線引きと曖昧な観衆

 旅と旅行の違い。これは少し愚痴めいた、しかし昨今を取り巻く誤解を紐解くに当たって、非常に具体的に説明できるので、エントリにしようと思う。英語でいうとtravelとjourneyの違いである。
 私の趣味は旅です、と言う人は多い。大方そういう人は決まって、行った先々の写真を見せて、こんな風景、こんな世界遺産という自慢をする。君はまだ行ったことも実際に見たこともないだろうけど、僕は写真の通り行ってみて来たんだ、という風に。それは他者に対しての優越という点で幸福感を得られるから、まったくもって問題ではないと思う。むしろどんどんやって、その土地の話などをシェアするといいと思う。話を聞く分でも面白いしね。

 問題は旅行と旅の区別をつけていない点だ。その二つをごっちゃまぜにして、同じ事だと認識することが、昨今のプロセスよりもリザルト重視となる風潮を生み出す原因になっていると思う訳である。
おそらくこのエントリを読み終わった時、あなたは旅と旅行が全く異なるものであるという事を知るだろう。

本題 簡単な定義付け

さて、旅行というのはいわゆる観光地と呼ばれる場所に、予め予定を立てて訪れることである。今日訪れる場所は既に決まっており、そのスケジュールをこなすことに主眼が置かれている。予測できることを、予測通りにこなせるかどうかという点にリソースが注がれているのが旅だ。予定通り観光地へと行き、写真を撮ってその風景とキャラクター(家族など)を切り取る。そして後日撮った写真をじっくり見ながら「あそこは良かったね」と後付けで理由を付けて振り返るのである。まずそういう人にどうして写真を撮るのかということを聞きたい。写真なんて撮らずに、その場で風景を楽しめばいいのに、どうして視覚情報だけに落とすのか知りたい。多分あんまり考えていないと思う。カメラはありのまま、ほとんど真実通りに残してしまう。勿論加工はできるけど、なんにせよその風景をPhotoshopで編集なんて、あんまり考えていない人達はやらないと思う。何が言いたいかというと、もっと人間の想像力という能力を使ってほしいということである。実際通りの風景じゃなくていいから、どんな風景だったか想像して欲しい。多分きっと美化されると思う。写真を撮る事自体は楽しいし、記録として残したいのも当然分かる。ただ写真を目的にするのは、本質的ではないということを言いたいだけである。無論プロの写真家として後世に残すのであれば、それが目的で十分構わない。

 新海さんなんかは、本当の光の差し方や風景を再現するわけではない。リアルを超えたリアルなんて表現はあんまり適当ではなくて、あの人は嘘ついたヴァーチャルを作っている。けどそれは観衆が求める景色なのである。

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 それは本物ではないけど、観客が求めるものがリアリティの定義である。そこらへんがVRとも絡むんだけど、それはまたの話。

 話を旅行と旅に戻そう。頻繁に見受けられる観光地で子供の手を引っ張って次々と観光地を巡る人達。あれはいったい何が目的でここに来ているのでしょうか? 行ったという足跡を残すことが目的になっているのではないでしょうか。果たしてそのことにどういう価値があるのか? と思う訳なの。だってその観光地という場所は、それになり得るだけの理由があって、それを楽しむために来たはず。僕が質問したら「いいえ、私たちは楽しんでいます」と人はいうけれど、それは記念写真を撮って、マーキングすることなんですか? もっとゆっくりその時間をかけて、その風景の一部になればいいのに。そう思うんですよね。別に気に入らなければ、次の場所へいってもいいんだけど。

 

 じゃあ、旅とは何なのか。旅は予測をするものではない。今日行く場所は今日決める。何が起こるかなんて知らない。予測できないことに出会う為に歩を進める。大まかにどこの方角へ行こうかというダミー目標地点は設定するが、
別にそこに行く必要もない。途中で目的地が変わることはしばしばだ。常に自分の知らない場所へいき、知らない人に出会う。もしかしたら、旅人が感動した風景は実は有名な景勝地だったかもしれないし、無名な場所かもしれない。
前情報を下に予測するのではなく、実際に現地で感じたことだけで、その土地を評価する。良いと思えば、少しの間滞在するし、特段心が惹かれなければ、次の土地へ行く。今はすごく土地情報が沢山あるので、感動した風景には名前がついていることが多い。だから仮に先に調べてしまうと、実際に見た時の感動が薄くなる。旅をするというなら、絶対に先に調べない方が良いと思う。必ず現地で調べよう。となると、時間と精神の余裕がないとなかなかできない。大抵の現代人はなぜか可処分精神的に旅をする余裕がない。時間はきっと作れると思う。旅をするというなら、そういう時間の作り方をして欲しい。ヒッチハイク、クルージング、青春18切符とやってきたけど、本当に良い出会いに溢れていた。みんな旅人になろうよ。

 これを現代の問題に繋げて

要するに旅行とは観光地という点に焦点を当てたものであり、旅というのは点と点を結ぶ線に焦点を当てたものである。旅はしかもいつが点であるかはいつ決めても良い。

点を目的としたとき、人は計画通り、予測した通りにことが進むことを期待する。そしてその達成の為に力を使ってしまう。これはリザルト、結果という点に重要視していることと同じである。観光地にいって足跡を残すというリザルト、写真を撮るリザルト、美味しいご飯を食べるリザルト。そういった目標物に主眼が置かれて、移動時間はスマホで時間を潰す。だって旅行者にとって移動時間は不必要極まりないものだから。旅人はその移動時間こそが本質になる。僕は高速道路のサービスエリアなんかがすごく好きで、旅人の休憩所みたいな雰囲気がノスタルジアを刺激してくれる。サービスエリアは目的地ではなく、その途中経過みたいなもので、そういう時間こそ実は大事なんだと思う。旅行に行く前や予定を立てている時のうきうきと似ている。行くことよりも、行くまでの過程にこそ、本質がある。なぜかっていうと、点というのは時間的に一瞬だからである。時間軸上で点というのはすごく小さくて、そもそも長さなどがない。人生を時間軸に取れば、本質はリザルトという点ではなく、プロセスという線なのである。人はやっぱり結果を重視する。けど結果なんていうものは、過程の上にしかない。結果だけに喜ばないで欲しい。過程に喜びや幸せを覚えて欲しい。受験期、合格する喜びよりも、仲間と勉強する充実さに幸せを僕は感じた。そういったプロセスに幸福を求める在り方に多くの人が気付いて欲しい。そのきっかけとして、旅と旅行の違いは重要だし、分かりやすいんじゃないかと思った。

 結論、旅という時間と精神の使い方は、幸福の見つけ方に一役買ってくれるということである。